~ 天空の抱擁 ~ Celestial Embrace

人は誰でも心のあるがままで天に抱擁されている…
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GIVE=「与える」だけじゃない

人は ただ 存在しているだけでいい

人は 誰でも ただ そのまま あるがままでいれば いい


私のサイトの名前は、

天空の抱擁
 ~人は誰でも 心のあるがままの姿で 天に抱擁されている




これの深い意味は 身をもって体験しているし

たくさんの人が 同じことを 違う言葉で 繰り返し

多くの人に 届くようにと 伝えているし

伝える、伝えられる場が たくさんある 今日この頃。



そんな中でも

そんな私でも


時折 ふと やってくる。


皆に おなじみの あの 切ない、ハテナマークたち。


〇〇かなぁ・・・・?


どちらかといえば、好奇心の、wonderの気持ちではなくて

悲しみや 落ち込みにも 似た もやもやや どんより空。


「私、このままでいいのかなぁ…?」

「私、いったいどこに向かってるんだろう…?」

「私、いい歳して こんなことしてて大丈夫なのかなぁ…?」


他の皆は 何をしていても完璧ですごいよ。

他の皆は そのまんまで輝いているよ!

皆、みんな、すごいよ!!


宇宙でたった一人、私以外は……… 

みたいな!!笑


そんな時に、「存在してるだけで人には価値がある」

などという、「知識」や「経験から来る感覚」を

思い出そうとしてみたりするけれど


なかなか 瞬時に、「うん、そうだった!」とは 

ならないものです(笑)


そんな時は、とにかくまずは、その「ぼやきちゃん」やら

「嘆きちゃん」やら、「ネガティブさん」←これはなぜか「さん」w

などの言い分を聞き…つまり、感じるだけ感じ…


で、こういうのを「感じ切る」というのは、

つまり、どっぷり浸かって、どん底まで感じ続けよう、

みたいなのは、これまでもう嫌というほどやっているので、

今がその時だ、と思わない限りは、

そこには長くいませんよ~という決意をする。


そして、意識的に思い出すのは、立派な格言でもないし、

誰かの励ましの言葉でもない。


歓びの感覚。


ただ それだけ。


他の人達は 違うものがあるかもしれないよ。


私の場合は、ね。。



私の場合は、自分が喜びを表現するのも、

人が 歓びを表現するのも、

それが、悦び だと、 長い年月かかってたどりついたから。


「仕事」じゃない。

「使命」じゃない。

「義務」なんかじゃ勿論、ない。

「良いことや善いこと」だからじゃ ない。

「どうだー!すごいだろー!」だからじゃない。


「外」が 「動機」じゃないんだ。

「外」が「目的」じゃないんだ。


でも、「外」は 大切なんだ。

「内」があるのだから。


私は まだ、今ここ にいる。

ここは もうすぐ 二元性や 二者択一の世界から変貌を

遂げて、飛躍していくだろうけれど、


その直前にあって

今ここで 抱きしめるのは

長い長い 人間の 歴史において

がんじがらめの苦悩を味わいながら

自らを そこに 落とし込み しばりつけ

永遠にそこで 苦しまなくてはいけないのかと

思ってきた 二元性。 

どちらにすればいいのか、の葛藤。


今、集合的な、そこからの飛翔直前にあって

最後に しておくことは 何よりも

それを 抱きしめること。

苦しんでいる、そのことすら 抱きしめる、

それよりも 大きな意識として。


それは すなわち どっちでもいいってこと。

どっちも ありってこと。

どっちも 同じものの裏表。

どっち、とかあっちとか、こっちとか、

どれも それも 一つの器の 中に 共存してるだけ。


だから…

〇〇かなぁ・・・?のあとは


内側の歓びを表すことが悦びの自分の方と 繋がる。


それが 私の 自然な 姿だから。


何度も言うけど 他の人は 違うと思うよ。

同じ「いのちの喜び」の表現であっても

色々な ものが あると思う。


でも

私の場合は 単純。


私のギフトは どんな状況でも どんな状態でも

ほんとーーーーに

アホみたいに

ちっちゃなことを めちゃくちゃ喜べる。 

すぐにそこにスイッチが入れられる。



人はあるがままで 存在しているだけで…が、ピンと

来ない時、 このスイッチを 思い出す。



喜びを 感じることが出来る自分。

喜びを 見つけることが出来る自分。

喜びを いとわず 表現することが できる自分。

喜びを 表現する自分が 好きな自分。


一番最初の記憶に近い、3歳頃の鮮明な記憶に、

朝、起きる時、ワクワクして、

なぜかめちゃくちゃ 嬉しくて

全身に エネルギーを たぎらせて ほとばしらせて

布団から がばっと 起き上がり


「おはよーーーー!!!!!!!」

と、大声で叫んで 両親を 驚かせた。


喜びを 感じていたことを 表現したくて。

そして その表現を 見て 驚く両親が 面白くて。

(このへんは、喜びの子というより、

エンタテイナーの子ですね・笑)


その瞬間のことだけは 忘れないでおこうと

きっと 今生の私が 決めていた。


ずっと ずっと 覚えている。


その朝の後は たくさんの悲しみや苦しみが

待っていたけれど。


あの朝の 3歳児の 私 にかえる。


何にも できなくなっても

何も していなくても


それに 還れたら


きっと 私は 「いてもいい」。「いる価値がある。」が、

実感できる。


他の人にとって じゃなくて


「存在」の 一側面、1ピースの 表現として。



もしも このすべてが 思い込みで 幻想だったとしても

「表現」という行為は

呼吸で いえば、 吐く息。


息を 吸って

息を 吐く。


その、「吐く息」が なければ ここにいる意味が ない。


吐いた息は 必要なところに 飛んでいく。

少なくとも 植物のところには。


だけど どこに 飛んでいくか は 重要じゃない。


生きるためには 息を 吐く。


何年も前 義父の最期を 看取らせて頂いた時

最期の 息は 「吸う息」だった。

「おとうさん、吐いて!息を吐いて!」と、

人間の私は 叫んでいた。

でも 義父の魂の選択は 義父の肉体の選択は

もう 「ここ」では 息を吐かないことだった。

そうして サイクルを 完了させて 旅立って行った。



何を したらいいのか わからなくなっても

何を 探しているのか わからなくなっても


そしてもしも 何が 喜びか 

それすらも見つからなくなったら・・・


まずは 息を 吸って 吐こう。

とりあえず 息を 出そう。


それから 思い出そう。


息を 出す、吐く、という行為。


それそのものが 表現するということ。

それそのものが ここにいる、という意思表明。


万一自分の心が そうしたくない、などと

叫んでいても この精巧な肉体を動かす鍵、

呼吸は、ちゃんと 行なわれている。

身体は、ちゃんと 出すものを 出している。



出す、というのを 英語で言う時

GIVE を使うことは あまり日本人に知られてない。


表現する、というのも GIVE を使う。


I wanna live.
  と
I wanna give.


は、イコール。



GIVE は、「与える」という意味だけじゃない。

「使命」とかなんとかのことじゃない。

誰かに「与える」ために 生きているのじゃない。


ただ 喜びの声を 発する。

ただ 息を する。 

大きく息を 吸って/頂いて、受け取ってから

ただ ただ

息を 大切な一息を 吐く。


「ここ」にいる限り やることは それだけでもいい。


そうして ただ ただ シンプルに

息を吸って/受け取って 吐くことが、ミラクル。


その息が 知らないところに 必要なところに

命として 飛んでいくことが ミラクル。

 

ただ 息を している、ただ 在ることが

「GIVE」。



逆に言えば、それが 

「与える」ということの 真の意味かもしれない。


生きているだけで ただそれだけで

「GIVEして=与えて」いる、表現している、発信している、

とも 言えるのだ。



ほら……


戻って きた。


ここに。


ここに いていい 喜びに。

生きている 悦びに。


「あるがまま」の 歓びに。


いのちの ヨロコビ に。


******************************
アぁ~長かったねぇ~爆

書きだしたら 止まらなくてどうしちゃったのかと思った!笑

もうこのまま アップしちゃいます。

こんな長いの読んで下さって ありがとう。


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