~ 天空の抱擁 ~ Celestial Embrace

人は誰でも心のあるがままで天に抱擁されている…
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絆の再認識 (パート2)

「続く」と書いてあったので、書かれるのを待っているのに
なかなかアップされない、と言われておりましたが(笑)、
ようやく気合が入りましたので、続き書きま~す♪
(例によって、気まぐれな人間を受容する練習だと
思って下さいね、ははは(^^ゞ)



4月2日のブログ記事の続き)


筋腫手術、傷口化膿、腸炎、甲状腺機能亢進と、次々と
浄化の病、解放の嵐を潜り抜けた後、すっかりもぬけの殻になって
静かに日々を生きていこうとしていた私は、
英会話教室で教材として使っていた「神との対話」著者、
ニール・ドナルド・ウォルシュ氏のウェブサイトを見つけ、
しかもそこに、憧れの聖地、「セドナ」の文字を発見し、
まったく躊躇することもなく、セドナ・リトリートに申し込んでいた。

2004年3月。退院して3ヶ月後のことだ。

大体において、転機では、大きな「選択」の瞬間があるものだが、
通常、それを選んでいる瞬間には、あまりそれを大きなこととして
認識していなかったりする。

私自身も、このことは、あとから振り返ってこそ
大変な意味のあった決断だったのだと言えるようになった。

それからすると、やはり、自分の中のどこかで
はっきりとした衝動が来た場合にはそれに逆らわないことが、
その時直接何に繋がっているのかわからなくても、
望む変化、必然の変化を次々と起こしていくことに繋がるのだろうと思う。


いわゆる『聖地』とされる場所は数々訪れてきたが、
たいてい、その場所に行ったことのあるニューエイジャーの人達や
ヒーラーさん達が、「今はもうその聖地のパワーが落ちている」とか、
「観光客が増えてしまって、エネルギーが良くなくなった」、などと
言っているのをよく聞く。

私自身は、まったくそういう意味を感じない。

聖地というのは、パワーをただ「もらい」に行くところではないと思うから。
たとえ、それが聖地であろうがどこであろうが、
それは、あくまでもエネルギー【交換】をしに行くところであり、
そこで起きることは、大きな意味での「共鳴現象」であり、
自分とその場所はあくまでも「対等」だと考える。

勿論、聖地には確かにものすごいパワーを感じることは多いし、
不思議な感覚や体験をしてくることが多いが、
それは、よく、そこに住んでいる人達が口にするように、
その場所もまた、そこに来る人達から受け取るプロセスがあり、
起きることは双方にとって意味があり、責任があるのである。

一方的に、必要以上にその土地を崇めたり、美化、神秘化することは、
人間が『神』に対して、権力者に対してしてしまったのと同じように、
結局は、依存を作り出し、自分以外のものとしての、その場所に
「癒してもらう」という発想になり、自分のセンサーを充分に働かせて
能動的に関わるというよりも、
自分のパワーを否定した人間のままになってしまう…と、感じる。


いつもながら話がそれた。


そう言いながらも、やはり不思議な現象が起きるのが聖地の
面白いところだが、その時も、まるで磁石に吸い付けられるかのように、
まるで、「おいでおいで」とセドナの方から言われているかのように、
私が迷う間もなく、あらゆる条件が整っていった。

気づくと、仕事も10日近くすんなりと休むことができ、
アメリカを一ヶ月おきに往復していたヒーリングスクール時代に
貯めていたマイレージで、航空運賃は無料になった。

そんなセドナを少しでも堪能したいと、実際のリトリートが
始まる3日前にセドナに入って、エネルギースポットである、
ボルテックスなどを回ることにした。


アリゾナ州フィニックスから乗り合いバスに乗って、走ること数時間、
セドナの赤い大地が見えてきた時、
途端に私の身体は、まるで重力が半分くらいになったように軽くなり、
酸素吸入でもしたかのように頭がすっきりして
元気になり、着いてからずっと、時差ぼけは一切なかった。
何度もアメリカを往復していたが、そんなことは初めてだった。


また、面白かったのは、ボルテックスのいくつかを回って歩いた時、
週末で観光客でどこも比較的混んでいたにも関わらず、
私と現地のガイドの人が着くと、なぜか途端に人がす~~っと
いなくなり、気づくとそのスポットにはたった二人だけになっており、
いつのまにかあたりはし~んと静まり返っていたということ。
風がどこからともなくやってきて、まるで話しかけるかのように
静かにそっと頬をなでていく感じになった。

ガイドの人に言わせると、この現象は、聖地そのものに
「呼ばれて」いた人、大きな変化のタイミングでやってきた人などに
多いらしく、ちゃんと静かに瞑想して、その場所と「交流」
できるようになっているので、なんらかのメッセージのやりとりが
あるだろうということだった。

実際、ある一つの場所で私はかなり深いトランス状態になり、
その状態でたった一つの祈りが浮かんできて、それを繰り返していた。

それは、その時になるまでは、思ってもみなかった内容だった。

高い断崖絶壁のようなところに腰かけ、あたりの赤い山々と
下方に広がる大地を見下ろし、すぐ近く空を感じながら、
私の心の中に浮かんできたのは、

「もう充分、私は人生で楽しませてもらいました。
好きなことをたくさんをさせて頂きました。
手術の際は、神々しい光に包まれて至福の経験をしました。

もう残りの人生では、私が今生でやりに来たこと、
使命があるのであれば、そのことにエネルギーを注ぐ準備と覚悟が
出来ていると思うので、それが何であるか、わからせてほしい。
もう使命にとりかからせて下さい。」

というようなことだった。

その時、私の心の目の前には、色とりどりの羽飾りを身にまとった、
ネイティブアメリカンの男性の顔が浮かんでいた。

そして、次のようなメッセージを受け取った。


「もうすでに、次のステージ、段階は始まっている。
それは、あなた個人の人生だけではない。
ここセドナの大地にとっても、人間にとっても、地球にとっても、
地球が旅している銀河宇宙にとっても。
すでにもう次のレベルは始まっているのですよ。」


セドナ観光最後の夜。つまりニールのリトリートが始まる前日の夜。
昼間案内してくれたガイドさん達と一緒に、
今度は、UFOを探しに行くツアーに行った。

本当にUFOが見れるかどうかということよりも、
(私は、日本を始め各地で、何度もUFO自体は目撃している。)
セドナのもう一つの魅力である、UFO出現多発地帯としての場所で
そのようなことができるということ自体、
そして、そんなことを楽しみながら一緒にやる人達がいること自体が
嬉しくて楽しくて、夜のピクニック気分で出かけた。

そして。

あんなに多数の飛行物体を見たことはないというほど、
オレンジや緑や赤の未確認飛行物体の数々と出会った。
まるで天体ショーのようだった。

今思うと、あれは、本当に、「祝福」だったのかもしれない…。


翌日から始まったリトリートのタイトルは、
「Re-creating Yourself=自己の再創造」というもの。

あらゆる意味で、その時点でもっとも私の取り組むべきテーマだったと思う。

そして、最終日。今思っても、奇跡のようなことが起きた。
「起きた」のではなく、正確には、起こしたということになるだろう。

あとで、主催者のCwG財団の人達に聞いたのだが、
その時のことは、後々になっても語り草になるくらい、
感動的だったということだ。


5日間に渡って行なわれたリトリートの最後を、
ニールが締めくくろうとしていた時、
ふと、出席者を見渡して、「まだ何か言い残したことがある人が
いるのではないか」と聞いたのだ。

そして、私は、自分が手を挙げたことにびっくりしてしまったのだが、
そんな間もなく、勝手に口が動き出し、
そこにいた100人の人達の前で、私は自分のライフストーリーを、
そして、そこに来た理由を、そして、その瞬間に「降りて」きた、
新しい自分像を語った。
深いところから突き上げるかのような衝動と情熱と共に。

何を言ったのかほとんど覚えていないのだが、
多分、後から聞いたところによると、ポイントは、
「重要なメッセージは言語を超える」ということと、
「私はもう、自分がずっと否定してきた自分のギフトを否定せずに
受け入れる準備ができた」ということだった。

それは「新しいスピリチュアルリーダーシップ」についてだった。

一人のグルや、一人の教師が導いていく時代は終わった。
一つの国や一つの文化だけが突出して引っ張っていく時代も終わった。
恐怖や罰で人を動かす時代は終わった。
愛、勇気、喜びに基づいて、一人一人が、
自分の決定や選択に意識的になって責任を持つことで、
自分自身の「人生のリーダー」になる時代であり、
それを私は自分の人生で身をもって示して生きていく、
というような「宣言」だった。

終わった後の会場の拍手や、なぜ参加者の人やニールまでもが
泣いていたのか、その時は、よくわからず不思議だった。

後から聞くと、皆、一人の人間の人生が、自分で宣言することによって
変わる瞬間を目撃した気持ちになったのだそうだ。

何よりも、それを聞いた後のニールが、
「君をずっと待っていた。一緒に仕事に取り掛かろろう」と言ったことが
感動の嵐を更に起こすことになったのだった。

私は、その瞬間、ボルテックスの上で自分が捧げた祈りを
思い出していた。

そしてわかったことは、「使命」というのは、
何か特別に新しいことを始めるということではなく、
自分がもともと持って生まれてきたものを
全面的に認め、受け入れること、
そして、何よりも、自分らしい自分になる、完全なる自分になる、
ということだ。

あくまでも、どこまでも、何よりも、
自分が自分になること、自分であり続けること、
自分が自分であることに課してきた制限を取り払うこと、なのだ。

その【自分】という【在り方】によって、自ずと【行動】が生まれる。
それが【使命】なのだろう。

そして、【使命】とは、「『喜び』と『責任』が完全に同義語になる在り方であり行動」のことなのだ。


そしてそれがわかったその瞬間、目の前にいたニール氏は、
私にとって、単なる「師/導師」ではなく、
出会うべくして再会した「同志」であり、
個人的な縁のある魂であり、かけがいのない友人であることが
はっきりと感じられたのだった。


(またまたいつかの後日に続く…)


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